にっき

メイゲツタカハシの日常

3月13日

 

 

 

身内に不幸があって、実家に帰ってきている。父方の叔父が亡くなったのだ。こういうことを書くのって、あまりに個人的だし良くないことのような気がするけど、書き残しておこうと思う。

 

11日の未明、アルバイトから帰ってきて、大学で唯一もとい唯ニ仲のいい友達(金子アンドサブちゃん)とラインをしていた。金子とは「PMSがひどいのでピルを飲もうか迷う」みたいな話を、サブちゃんとは「ふたりきりで夜を明かして手すら握って来ない男はホモなのか紳士なのか」みたいな話をしている時だった。

おそらく2時過ぎ、母親から突然「たったいま叔父さんが亡くなりました」という内容のラインが来た。本当に突然。急変した、とか入院した、とかそういう前触れもなく、突然亡くなったという連絡がきたので、恐ろしく趣味の悪い冗談なのではないかとすら思った。あまり覚えていないのだけど、まず最初に「こういう連絡もラインで来るんだな、今時」と思ったような気がする。

 

そのあとは「悲しい」とかそういう感情よりも、バイト先に休むことを連絡しなければ、とか喪服はどうしようか、とかそういった心配ばかりが浮かんだ。わたしは恐ろしく冷たい姪なのかもしれない。でも言い訳をすると、「叔父さんが死んだ」という事実にいまいち現実味が感じられないときに、無理矢理それが現実だと実感するために時間を割くよりも、その事実に付随して確実に起こるであろう通夜葬式等の心配をしたほうがスムーズに物事が進むのだとなんとなく気がついていたからなのだと思う。そう思いたい。

 

いざお通夜になるとなんだかんだ実感が湧いて泣いたり悲しくなったりするのかと思いきや、意外とそうでもなかった。祭壇に飾られた叔父の写真とか、その前にある棺桶とか、涙目になっている叔母(亡くなった叔父の姉に当たる)の顔とか、そういうものを見てもやっぱりどうしても実感がわかなかったのだ。セレモニーホールで行われる通夜や葬式にありがちな、オルゴールバージョンの「言葉にできない」や「ハナミズキ」のBGMとか、白々しい司会進行のアナウンスとか、意味がわからないくらいスピリチュアルっぽい音楽に包まれた中でのお坊さんの入場とか、そういうものも手伝って、もしかすると不謹慎なことなのかもしれないけれど、ディズニーランドのアトラクションに乗っているかのような気分になっていた。楽しいわけではないのだけど。

 

やっと実感がわいたのは、棺桶に入っている叔父の顔を見た時だった。構成する原子は何も変わっていないはずなのに、生きている人と死んだ人の体は確実に違う。死んだ人の体は肉体というよりも物体と呼んだ方がしっくりくる。顔を見た瞬間、ああ本当に死んだんだ、と思ってその瞬間叔父さんと最後に会った時のことを思い出した。今年の年明けだ。

 

成人式があったので実家に帰ってきていたわたしは、実家の近くにある祖母の家に行った。なぜ祖母の家に行ったのか、詳しい理由は忘れたのだけど。叔父には生まれつき障がいがあり、ずっと独身で祖母と一緒に暮らしていたので、祖母の家に行くと自動的に叔父にも会うことになるのだ。別れ際、叔父がトイレに行ってしまっていたので、トイレの外から「またね」と声を掛けた。特に返答はなくてそのまま帰った。

あの時返答を待っていれば良かっただの、もっと叔父さんと話せば良かっただの、そういった類の後悔はない。ただ、死んだ叔父さんの顔をみた瞬間、そういったことを思い出して「あああれが最後だったんだ」とやっと実感して悲しくなって少しだけ泣いた。

 

よく「お通夜やお葬式は故人を偲ぶためにあるのと同時に遺族が悲しみ過ぎないためにある」というようなことを聞くのだけど、それは本当にそうだと思う。お通夜やお葬式を執り行うにあたって、遺族は悲しみの当事者であると同時に、そのイベントのホストであらねばいけないのだ。通夜葬式特有のルールを復習し、いまいち誰なのかわからない親戚や故人の知り合いに挨拶をし、食事を手配し、お坊さんをもてなし、招かれた人々が不快な思いをしないように気を配り続けて、それらが全て終わった頃には疲れ果てて眠りにつく。死を嘆き悲しみ続ける余地はない。

もちろん、これはお客を招くタイプの通夜葬式の話で、本当に身内だけで行う小さな会(家族葬と呼ぶのだろうか)をするとなると話は変わるのだろう。わたしは父や母に常日頃から「死んだ時は家族だけの小さな式でいい」と言われ続けているのだけど、それはそれで辛いものがあるのではないかと思う。家族葬の場合、やることがないわけではないけど、やっぱり普通よりかは少ないわけで、疲れ果てて泥のように眠ることはないだろう。そうなった時、わたしは考えても仕方がないことを考え続けてしまいそうだ。そう考えると、やっぱりお通夜や葬式というのは100%故人のためだけにあるものではないのだと思う。

 

また、自分が死んだ時のことも考えたのだけど、わたし本人の意向よりも周りの人が一番納得して進められるようにしてくれたらそれでいいなあ、とか思っていた。それができるくらいの貯金をきちんとしようとも思った。

 

思いつつ、春物衣料の衝動買いが止まらない。最近買い物中毒気味だ。