にっき

メイゲツタカハシの日常

12月13日

 

 

朝、起きて死ぬほど寂しくて孤独で自分みたいな人間は一生愛されず死んでいくのだとか考えてみたのだけど、あまり現実味がなくて途中で断念した。逆に人生で一度でも他人に心の底から愛されるという経験ができる人なんて一握りなのではないだろうか、という仮説も立ててみたのだけれど、これまた現実味がなかった。真偽のほどは定かではないが、人間は漠然とした希望を頼りに生きているのだろう。強い。

バイトの時間より前に新宿へ行って買い物をしようと思っていたのだが、うだうだと準備をしていると微妙な時間になったのでバイト先の控え室で同い年の男の子と給料やシフトについて話しつつ、シフト入りの時間まで時間を潰した。

今日は仲良しの社員が居なかったのだが、以前その人にわたしが「幸せになりたいねえ」と言うと返された「すぐ股を開く女だから幸せになれない」という言葉を反芻しながら野菜をドレッシングで和えたり念力で客を帰らせようとしたり、2018年の目標を発表したりしていた。そして、落ち着いて考えているからこそできる反論を考えていた。すぐ股を開く女でも幸せそうな女はいる、さらに今わたしは自分が不幸だなんて言った覚えはない、今でも十分ハッピーなのだけど、今以上にハッピーになりたいから「幸せになりたい」と言っただけなのだ、さらに加えるとわたしはすぐ股を開くような女ではない、等々。あまり頭の回転が早くないので、ときどきこういうことがある。会話が進むスピードの範囲内で自分の思いをうまく伝えられず、数日後に「あの時わたしが言いたかったのはこういうことだったから、こういう風に言えばよかったんだ」と頭の中で考えてしまう。そんなこと考えたってどうにもならないのに。

ラストオーダー間際にお世話になっている人から電話がかかってきて、仕事を手伝って欲しいと依頼された。お手伝いしたいのは山々なのだが、アルバイトのシフトや大学の試験があるのでできるかはわからない、と答えた。その人に初めて会ったのは18だか19だかの時で、右も左もわからないわたしをいい意味で面白がってくださって、それ以来折々声をかけてくれるのだけど、その度々に「高橋さんの瑞々しい感性が〜」等の過ぎた褒め言葉をいただくのが心苦しい。わたしは瑞々しい感性を持っているのだろうか。はたまたわたし自身が瑞々しいのか。わたしとしては生まれてこのかた瑞々しいものを敵として排除することに勤しんでいるのだが、そこが逆に瑞々しいのだろうか。わからないけど瑞々しいわけでも瑞々しいものが作れる才能があるわけでもないような気がしているので、聞くたびに申し訳ない気分になる。ただ、いいお話をいただいたので相思相愛(だと勝手に思っている)の料理長にシフトを調整できないかお願いしておいた。相思相愛(だと思う)なので割合快諾してくださって人間は素晴らしいと思った。

バイトが終わった後、仲のいい同僚と途中まで一緒に帰った。道中、依頼を受けた仕事の内容について話した。その仕事自体はとてもやりたいのだが、クレジットカードの支払いが追いつくか不安だと漏らすと、呆れられた。

そうして帰宅し、今湯船に浸かりながら日記を書いている。湯船から上がったら閉店間際の西友で買ったプライムリッチを飲むつもりだ。