にっき

メイゲツタカハシの日常

1月23日

 

 

 

 

最近、幸せなような怖いような夢をよく見る。今日見た夢もそんな感じだった気がする。

 

朝起きると、金子から13時のバスに乗って学校へ行くとラインが来ていたので、わたしもそれに乗って行くことにした。二日酔いで若干テンションが高かったのでたくさん喋った気がする。この日記を読ませたら「面白い」って言ってた。金子は笑っても暗い印象が拭えないのが不思議だ。

 

来年から、コースの専攻がわかれる。わたしはシナリオで、金子は批評を専攻する。だから、一緒に受ける授業がかなり減ることになる。不思議な感じ。でも金子の書く批評なのかコラムなのかわからない文章はすきだし、ふーんって感じなので頑張って欲しい。まあわたしは身内に甘いから客観的に読めているのかは謎だけど。

 

今日はもう専攻ごとにわかれてのガイダンスだったので、金子とは別だった。金子以外に何人か話したことある子はいるんだけど、グループが出来上がっていて怖くて話し掛けられず、孤独だった。でも、居場所がない感はある種わたしのアイデンティティで、中高時代から今までいつ何時も感じ続けているので、やり過ごしかたは熟知している。そういえば中高時代、今よりも友達の数は多かったにも関わらず、いまよりも孤独だったような気がする。気心が知れていて、過ごした時間も長い友達がたくさんいたのだけど、なんだかいつも居場所がないような気がしていた。こちらに来てからはシンプルに友達が少ない孤独を味わったせいで、そんな種類の感情は忘れていたのだけど、年明けに同窓会があって、その時久しぶりにその感覚を思い出した。みんなのことは嫌になる程よく知っているし、きっとみんなもわたしのことを嫌になる程よく知ってるんだけど、知っているからこそ分かり合える限界値が見えてしまっていて、大げさにいえば永遠に埋まることのない大きな溝が浮き彫りになっていたような、そうじゃないような。決してそれはみんなのことが嫌いだとかそういうわけじゃなく、みんなのことが好きだからこそ、その溝の深さに軽く絶望するような、そんな感覚がずっとあった。まあ、それはもしかすると誰もが抱えてる問題で、わたしがひとりで大げさに悲しんでるだけなのかもしれない。よくわからない。

そういえば、同窓会の前日に中高時代の同級生とお酒を飲んでいたのだけどその場で「お前はブスのくせになぜそんなに自信があるんだ、きっと自分のことを可愛いと思っているんだろう」的なことを言われて、正直ムカついた。それって要するに「ブスの女=価値がない∴自信を持っているブスの女=自己認識が甘い」というひどい論理なんだもん。可能であればフェミニストを30人ぐらい呼んで「女性の価値を見た目でのみ判断するのはおかしい!」とかそういう感じで弾糾して欲しかった。でも、うーん。あえて冷静に答えるけど可愛いと思ってはいないと思う。もちろん化粧した自分の顔を見て「おっしゃ可愛い可愛い」と自己暗示的に言い聞かせることぐらいはするけど、これって女の子誰もがやることなんじゃないかと思っている。ていうかそうじゃなかったらわたし死ぬほど恥ずかしい。

ブスのくせに自信があるように見えるのは、きっと自信満々で周りを下に見ないと悲しくて惨めでやっていけないからなのだ。しかも、周りを自分よりブスだと見下してるわけじゃなく、ちゃんとそれ以外の要素で見下してるし、別に全員のこと見下してないし。だから許して欲しい。ていうか逆に常に自分を「ブスだから身の程をわきまえて生きないと…」みたいなスタンスを常に持ってたらきっと生きていけないし。いや、わたしだってブスだとわきまえた行動を取ることだってちゃんとあるし。安心して欲しい。

 

話が全然違う方向に飛んでしまったのだけど、専攻別のガイダンスでは、最初の課題の説明とその過去作を見た。知ってる人が結構出てたりして個人的にかなり面白かったんだけど、少し不安になった。2年前だったら「うーん面白くない」で切り捨ててたような気がするけど、今日は知ってる人があまり上手くない演技をしているのを抜きにしても「結構面白い」と思って見てしまったからだ。「このカット微妙じゃない?」とか「この台詞よくないなあ」とか「これってオールアフレコなの?」とか思う箇所はあったにせよ、「この芝居がいい」とか「この展開、ありがちだけど気持ちいい」などと普通に面白いと思って見たのだ。前より細かく分析できるようになったということなのかもしれないけど、それってどうなの?と思う。「ここはよくないけど、ここはいい」という細かい分析によって、感覚的な判断が鈍ってしまうような気がする。感覚的な判断を論理的な判断に置き換えられるようになってきている、ということなのかもしれないけど、それってなんかどう対応していいのかわからない。このまま大人になるにつれて、グレーだった緩衝地帯がどんどん小さくなっていって、いつか完全に白と黒に別れてしまう日が来るのかもしれない。そうなったとき、わたしは果たして今のようにある程度はシナリオが書ける人間であり続けられるのだろうか。ただでさえどんどん書けなくなってきているのに。ああ、恐ろしいけどとりあえず進むしかない。

 

今日は感情的で青臭くてちょっとうってなりそうな日記になってしまった。

ああ、そうだあと一つだけ書いておきたいことがある。最近「エモい」を多用する大学生が多いけど、彼らは容易にエモいを使いすぎなのではないだろうか。例えば我々の年代だと、3年くらい前の思い出が詰まった写真を見ての「エモい」はわかる。感情が動いて心がぎゅーっとなって、懐かしさと恥ずかしさが同居するような感じ。でも、明日の飲み会に可愛い女の子が揃ってると聞いての「エモい」は違うんじゃないだろうか。それには「アガる」とかそういう軽い言葉で対処しようよと密かに思っているものの、そこでは謎のブスマインドを発揮してしまって「ブスが流行語の用法について語るなんておこがましいかな」とか「ていうかそんなに言葉の用法について厳しくある必要ってあんの?」とか色々考えて何も言えなくなってしまう。

ただ、今日のこの日記は確実に「エモい」はずだ。やっぱりわたし自己認識甘い?

これからはもう少しシンプルに生きたいと思います。